タンゴという名の電車


 娘にメールをしました。
 「私のワガママ許してくれますか」
 「何ら反対する理由なし」
娘からの端的な返事に「参った」のでした。
2018年7月に日本を飛び立ちブエノスに90日間滞在することを決意して、旅支度が整い始めた出発1ヶ月前のある日、ブエノス行きを長女に初めてメールで打ち明けた。比喩的にまた大げさかもですが親は「大海原に伝馬船で漕ぎ出した」感をゆるしてくれた娘の気持ちに「参った」のでした。この『大海原』と何気に使った言葉が、そのときには付箋でどんな意味を含んでいたのかは見えていませんでした。唯、「私のワガママ」なんです。まあ、万が一反対されても「ごめんね」と言って行ってしまう私ですがね。
 90日間のブエノス一人旅を終えて、「無事、成田に着いた」とメールで知らせると、「次は安全な国にしてよ」と一言。その一言に娘はどれだけ心配していたことか伺い知れます。
「ごめんね。心配かけて」と素直に娘にあやまりのメールを出しました。
 
恵比寿のミロンガで、隣にすわっている女性にこんにちは始めましてと声をかけたのがきっかけでした。彼女Kさんはブエノスに行く話をされて、私もいつか行きたいと話しメール交換しました。Kさんは6ヶ月の予定でブエノスに先に発ち、現地入りして3ヶ月ほど経った頃「いつ来るのー。やはりブエノスに来なくちゃ」とメールが入りました。
 飛行機はデルタ航空アトランタ経由にしました。443,000円とバカ高かくて迷いましたが、乗換時の荷物受け取りもない、乗り換えがわかりやすいところが決め手になりました。英語もスペイン語もダメですと高くつきますね。宿は最初は日本人が経営しているところがいいじゃないかとChacabucoyBelganoのシェアハウスを紹介してくださいました。
 「飛行場に迎えに来てくださいね」Kさんに気楽に頼むと「あなたに24時間着いているわけには行きません」の返信メール。当然ですが、ハシゴを外された感です。
ブエノスに滞在している日本人に最初に合ったとき挨拶言葉のように「気をつけてね」。「警察も当てにできない。自己責任よ」。覚悟して生きていることが伝わってきます。
 現地で前払金3ヶ月で150ドル支払いました。但し、もし何らかの理由で部屋を出る時は返金してくれるかを確認。シェアハウスは暗く冷たい部屋。腰が曲がるほどに沈み込むベット。絨毯もなく机も椅子もなし。ブエノスの人々はこういう暗くて寒い部屋で過ごしているんだとおもいましたよ。この環境に適応力をつけないと覚悟しました。ブエノスの7月は真冬です。「あー、寒いから部屋で温まろう」でなく、外を歩いているときのほうが身体を動かしているぶんまだましです。とにかく寒い!日本から持ってきた寝袋と湯たんぽに助けられました。湯たんぽにお湯を入れて寝袋の中に入れて御飯食べるのも、化粧するのも、パソコンを打つのも寝袋の中です。台所で食事の支度をしていても足元が冷え冷え、震えてきます。バカは風邪引かないと言っていた私は風邪も引いて熱も出てきました。治りかけても寒くてまた熱が出てきます。そんなことを寝袋の中でフェイスブックに書いていると「サバイバルしてますね」とメッセージに書かれていた。その言葉を見て、「そうなんだ。これはサバイバルなんだ」と。
 ブエノス在住の日本の女性に紹介していただいて宿を変えました。2度めのシェアハウスは、寒さに震えていたので暖房のある部屋は天国のようです。「ここは天国だー」と歌が飛び出してきました。でもそのうちに私が電気を付けると「TEIKO….」と睨むんです。インフレで電気代が200%もあがったとか。私は持っている懐中電灯で食事の支度をするようになりました。
 
3度めの引っ越し先はCorrientes Av. y Janres Jean のアパートです。
長期滞在で35%割引の900ドル/1ヶ月です。
「もう若くないんだからお金を出して快適に過ごすほうが良い」のアドバイスもあり、セレブではないが思い切ることに。
床暖房で大きなガラス戸の引き戸。ベランダにかかるように街路樹の若葉が出始めた頃です。お日様が燦々とお部屋に。広いリビングキッチン。コーヒーメーカーも揃ってます。無いのは汁物を救うお玉がなかっただけです。笑う程の快適さです。「庭子の部屋」と名付けてプライベートをお願いした先生たちもここへきてレッスンをし、現地で毛糸屋さんの娘さんともお友達になって彼氏を連れて何度も遊びに、酒屋さんのパブで女性2人で飲んでいた方も遊びに来てくれました。
英語もスペイン語もゼロな私が頼りにしたのは小型の音声翻訳機です。35,000円もしてぎゃ、高い!背に腹は代えられぬ「秘密兵器ちゃん」です。ですが、ブエノスはWiFiがあるところは少なく役に立たないことが多かったです。でも無いよりはマシです。
 ブエノスに着いて一番最初に覚えた言葉は「cambio」です。フロリダ通りを歩くと「cambio」「cambio」と大勢の人が叫んでます。私は最初の頃はフロリダ通りの地下にある両替所で1週間分の生活費300ドルを交換していました。7/20のレートは28.2pesosで、9/20のレートは38.80で,私がブエノスを発つ頃の10/16レートは36.0でした。
 25de Mayo386にある公の両替所がレートが良いと教えていただいたので行ったときのことです。後でわかったのですが「AHORROS」(私は無駄使いをしません。大切に使います)というサインをする用紙をガラス越しに差し出されたのですが、黙って紙だけ出されても戸惑うばかり。秘密兵器ちゃんを取り出して「旅行者です。わからないので教えてください」と言うとガラス越しに4人の職員さんが座っていたのですが怖い顔がゆるんでみんなで顔見合わせて笑いだしました。それを見せてくれとジェスチャをするのです。手渡すと自分のスマホを取り出しで写真を撮り、どのように使うんだと試しに使って面白がりました。恐恐して入った公の両替所は、それが縁で私の顔を見ると「うん」とうなずいて便宜を図ってくれました。「秘密兵器ちゃん」があったからこそかな、楽しい出合いをたくさんいただきました。怖い思いもしましたが危機一髪でまぬがれました。

 伝馬船で大海原に漕ぎ出したような私でしたが、神様が一緒に寄り添ってくれていたような。ブエノスで「天空の庭子」だと色々なところで笑われましたが、「『天空の庭子』さんはみんなの祈りで守られているんだよ」と言う言葉も頂きました。
 ブエノス日記としてFacebookに載せていますと、多くの方から応援メッセージを頂きました。おもえば応援メッセージはみなさまの祈りでした。おかげで無事帰って来ることができました。
 日本では会ったことがないタンゴのHさんからもメッセージをいただきました。
 以下はHさんと私のやり取りです。
 「庭子さんの中に、何か小さな国に収まりきれないエネルギーを感じて、惹かれていった次第です。私は両親がとても幸せだったと思える時代大連で生まれました。大連の記憶はないのですがそれでも私の原風景は大陸なのです。」
 「H様、原風景が大連など大陸に持っている方たちに、私はなにか違う大きさを感じてました。突き動かされるエネルギーは大地であり、大海原であり、太陽かもと。自分はばかだなあ。”知らない強さ“でブエノスに行ってしまったがバカだよなあとおもっていましたが、漁師だった父は「海は広いぜー」と言っていた父の血を引いているかも。マグロを追いかけて大海原に出ていった漁師たちは昔のことで漁船探知機はない時代です。海を見て空を仰ぎ経験知と感だけの時代を生きた父です。大地が大海原が地球のマグマが動かしてくれたんだと自分自身に理解させると、朝から勇気がでてきました」
「庭子さま、確実に庭子さんにはお父様の雄大な血が流れていらっしゃることは確かデス。
だって、大海原に出てしまえば、自分と海しかない。家族のことや、あれこれ思っても、そこにある現実は、自分と海だけ。そういうの、好きですね。」
 「H様、私は今まで母の潔さの話をしても父のことを他者に話すことなくこの歳まできましたが、Hさんに内面の奥深い所を受容して頂きました。大きな宝物を見つけた思いです。」
 日本に帰って来てすぐにH様に会いたいと連絡しますと「無理しなくても必要なときに必然的に会うときがあります」のお返事から7ヶ月後、H様に会えました。マザーテレサのような方でした。
 「いつか湯河原でタンゴの会ができるといいですね。願いを温めてください」と声かけてくださいました。

 70歳で「タンゴという名の電車」に乗った私は、大海原の中を走って父や母を見つけました。ブエノス一人旅してから丁度1年経ちます。ブエノスは冬に入っていく頃で、日本は梅雨明けて夏に。「ぎおんまつり」の花火が上がりました。夏空の花火を眺めながらタンゴは銀河鉄道のようだと見上げました。タンゴはミステリーです。でもこのミステリーは皆様に導いていただいていることを強く感じている今日です。感謝を込めて心より「ありがとうございます」と申し上げます。